盛れない盛れない言い過ぎな件

私は友人と写真を撮る。しかし、友人から「撮り直そう」と言葉がかかる。

なぜだ。写りが悪かったか、ブレてしまったのか。私は了解し、もう一度カメラに目を向ける。

写真を撮り終えて友人から一言。

 

 

「盛れない」

 

 

盛れない!?

君が盛れるまで私は何度もカメラに向けて、気色の悪い作り笑顔を向けなくてはならないのか。

 

 

 

 

私も大人だ。こんなことで文句は言わない。

しかし、何回も、何回も何回も何回も繰り返される「盛れない」の一言とシャッター音。

終わりの見えない「盛れない」に次第に私の心を蝕んでいく。

 

 

 

 

SNOWを筆頭に色々なカメラアプリを使う友人。

ついには犬やら猫やら動物になりきっていく。

口が隠されたと思いきや、今度は目を隠してく。

もうどうせなら、顔自体を隠してしまったらいいのに。

 

 

そう考えるとマスクで顔を隠した。

しかし、保存はしない。なら、なぜやった。

もう盛れてるもなにも関係がないことをやるんじゃない。

頼むから、ちゃんと盛ってくれ。

 

 

 

 

もう終わりはこないんじゃないか。

私はこのままカメラを向けられて人生の終わりを迎えてしまうのか。

 

 

 

 

そう考えた時、友人からやっと「盛れた」の一言。

ついに、ついに盛れた。盛れるって素晴らしい・・・

私はやり遂げた。終わりの見えない戦いから無事生還した。

 

 

 

 

友人が『盛れた』という写真を見てみる。

 

 

・・・なにが違うのか。

私の目では盛れてない写真も、盛れた写真もすべて同じ顔に見える。

1番初めの写真で絶対によかった。

 

 

 

 

しかも、この写真。友人の顔はいいのだが、私の顔は何回も繰り返し撮られたことの疲労感が顔に出ている。誰がどう見ても、私の写真は盛れていない。

まあ、いいか。友人が満足したんだ。私も達成感で気分がいい。

 

 

 

 

今日は疲れた。もう家に帰ってゆっくりしよう。

帰路に就こうとした私に友人が言う。

 

 

「この写真、インスタにあげとくね」

 

 

!!!??!?!?!?

  

なんという不公平。

もうあなたと写真を撮ることはないだろう。

私の醜い盛れていない写真が全世界に公開されても、もうどうだっていい。好きにやってくれ。

 

 

とりあえず、家でやけ酒でもするかな。